N響アワーで立花隆氏が

なんと、池辺っちと立花隆氏は幼馴じみだったとは。知らんかった。
池辺っちって、これまでに1曲だけ12音音楽を書いたんだけど、それが大学の時に先輩の立花隆氏の詩につけた曲だったんだと。


ペトルーシュカやってます。私個人の感覚では、ストラヴィンスキーの作品では一番ひっかかりがいいのがこの曲。火の鳥はなじみが良すぎて最近ではコリン・デイヴィスの演奏する全曲版とかいうのでないと飽き足らないという感じになってきてしまった。逆に、春の祭典はややえぐい。しかし、大好きな作曲家ではあります。分類上フランス近代音楽になるんでしょうね。ラヴェルとすごく近い感じで聴いてます。


立花氏は、SPからLPが出だした頃に、ステレオコンポを買う金などないので、自分で組み立てていったそうです。大学に入る前後のころらしいですが。


最後の曲は、バッハの前奏曲とフーガ変ホ長調シェーンベルク編曲管弦楽版をやってます。この曲はなかなか興味深いですね。

シェーンベルクがバッハを当時の聴衆にもっと聴いてもらおうととりくんだ編曲のようですが、当時の聴衆にとってバッハを聴きやすくするにはこういう編曲がよかったのか、という観点でみるとおもしろいです。後半のフーガは明らかに各機能主題群ごとに、木管管楽器群(というか最初はクラリネット群のみで統一)、弦楽器群、金管楽器群にきれいに割り振って、その対照をきわだたせることで、機能面を明確化して、古いバッハの音楽らしさを保ったまま、当時のはなやかなオーケストレーションが楽しめるという編曲になっていますが、前半の前奏曲は、特に現代、すでにバッハがあたりまえのように聴けるわれわれからすると、どうしてここまで各断片をぶつぎりにして万華鏡みたくきらきら色彩変化をもたせる必要があったのかと、違和感を持つのではないでしょうか。バッハを管弦楽に編曲するなら、今のわれわれなら当然、バッハ自身の管弦楽組曲を想定しますから、オーケストラの規模や色彩感が増すことはあっても、基本的なバッハの管弦楽法から大きく逸脱する必要はないんではないかと思うのではないでしょうか。

それにしても、この曲の名演ってあまりないと思うのですが、スイトナーさんとN響のこの演奏はなかなかすばらしかったと思います。前奏曲は楽器が次々とうつりかわるためになめらかさがそがれて興ざめとなりやすいのですが、そこをもたもたせずに進め、完全に別の曲としてかなり長いポーズをおいて始まったフーガの冒頭は一転して非常におちついた静かで宗教的な雰囲気をかもしだしていました。第2、第3フーガ群の登場とともに楽器群がいれかわり、テンポ感もだんだん活発にしていき最後にうまくクライマックスを持ってきていたと思います。これ、いつの演奏でしたっけね、小出進也氏がフルート吹いてましたが。